ジュエリーミュージアムで学ぶ”宝石のまち”甲府

ジュエリーミュージアムで学ぶ”宝石のまち”甲府

  • ジュエリー
  • 歴史
  • 宮沢 喬

毎年、駅前のよっちゃばれ広場で開催されている『こうふはっこうマルシェ』でもご存じのとおり、甲府は“宝石のまち”と言われるほどジュエリーの生産や加工が盛んな街です。
しかしながら私自身あまりジュエリーと縁がなかったこともあり、甲府が宝飾産業の本場であるという実感が持てなかったのも事実。

なぜ、”宝石のまち”と呼ばれるのか?
その背景を探るべく、山梨県防災新館に併設された山梨ジュエリーミュージアムにて、学芸員の若月千佳さんご案内のもと、お話を伺いました。

甲府は水晶の産地

まず、「甲府は水晶の産地だった」というところから話がスタートします。
遡ること縄文時代、甲府市黒平町周辺で水晶が発見されたのち、江戸時代後期には水晶玉をはじめとする置物や装飾品として、水晶が利用されていきます。
はじめて水晶を発見した人はどんな気持ちだったのでしょうか。我が家では週末に家族でよくマインクラフトをやるのですが、ブランチマイニングでダイヤを見つけた時と同じ興奮でしょうか。

効率化の必要から研磨技術が向上

江戸時代後期になると、「甲州街道をはじめとする流通網ができたことに加えて、山梨の水晶は質が良く重宝されたことから、京都などからも水晶の需要が拡大しました。しかし、水晶の原石を注文分だけ手に入れるには何ヶ月もかかり、さらに使える部分は全体の約1/3程度。よって効率化の必要から甲府で原石を加工してから出荷するようになりました。」と若月さんは言います。マイクラでいうところの鉄原石から釜戸で鉄インゴットを作ることでさまざまな用途に使用できるということでしょう。
そう、提供の効率化を考えた結果、甲府での研磨加工技術が高まっていったということです。

華麗なるジョブチェンジ

また明治時代には、ヨーロッパから伝わった技術などをもとに本格的な宝石研磨技術が導入され、20世紀に入ると水晶に限らず多様な宝石が集まるようになり、研磨・彫刻・貴金属加工など多様な職人たちによって、地域を支える主要産業となりました。それはまさにマイクラでいうところのダイヤピッケルからの黒曜石、ネザゲからのネザー、ブレイズロッドからブレイズパウダー、エンダーパールと掛け合わせてエンダーアイの生成というところでしょうか。
こうして、甲府は全国有数の宝石加工産地へと成長していきます。

若月さんはこんな話もしてくれました。
「明治時代に廃刀令が出されたことで、刀装具をつくっていた金工職人たちが職を失い、持ち前の技術を活かして宝石加工の道へと進みました。静岡などから甲府に移住してきた職人もいたそうです。」
つまり、職人たちが新しい需要に対応して技術を活かし、宝飾産業の礎を築いていったことが伺えます。華麗なるジョブチェンジですね。

甲府はジュエリー製品国内出荷額全国一位

昭和時代に入ると戦後の厳しい状況を乗り越えつつ、アメリカやヨーロッパなど海外への輸出が本格化。まさにエンダーポータルからのエンドラ討伐、エンドシティでエリトラをゲットし世界へ羽ばたくということでしょう。
そう、バブル崩壊などを経て宝飾産業全体の規模は縮小したものの、現在でも山梨県はジュエリー製品の国内出荷額で全国一位を誇っています。

ジュエリーミュージアムで学ぶ”宝石のまち”甲府

なぜ甲府が「宝石のまち」と言われるのか?

以上のことから、なぜ甲府が「宝石のまち」と言われるのかというと、
・水晶の産地だった
・流通の合理化をきっかけに研磨・加工の技術が集積した
・刀装具職人など、高度な金属加工技術を持つ人々が宝飾分野へ転向した
・国内外への輸出を通じて一大産業に発展した

といった要因が重なってできた歴史から、今の「宝石のまち」が存在するのだと思ったのでした。

という壮大な話を若月さんから聞かせてもらったところで、あっという間に1時間経過しながらも、まだミュージアムの入り口らへんでしかなかったことにビックリ。
それからゆっくりミュージアムをご案内いただきながら思ったことは、私もマイクラで一生懸命遊ぶこともさることながら、WEB制作やデザインを生業とする職人のはしくれ。時代の変化に負けず宝飾を日本一の産業まで発展させた先人たちの偉業をリスペクトしたい、と心に刻んだのでした。

山梨ジュエリーミュージアム

〒400-0031
甲府市丸の内1-6-1 山梨県防災新館1階やまなしプラザ内
電話番号:055-223-1570

宮沢 喬

宮沢 喬

VISUAL AND ECHO JAPAN

この記事を読んで
「まちなかへ出かけよう!」と思ったらクリック!

Loading spinner